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일제강점기 부산의 [나병]과 그 대응

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dc.contributor.author 김정란 -
dc.date.accessioned 2017-02-22T06:54:04Z -
dc.date.available 2017-02-22T06:54:04Z -
dc.date.issued 2006 -
dc.date.submitted 56822-12-26 -
dc.identifier.uri http://kmou.dcollection.net/jsp/common/DcLoOrgPer.jsp?sItemId=000002175709 ko_KR
dc.identifier.uri http://repository.kmou.ac.kr/handle/2014.oak/9988 -
dc.description.abstract この論文は植民地時代における釜山の「癩病(患者)」に&#23550 -
dc.description.abstract 植民地ともかかわると言えよう。 -
dc.description.abstract 近代·&#33073 -
dc.description.abstract する否定的な認識は今現在もさほどかわっていない。このような認識の問題は&#33073 -
dc.description.abstract の暴力でもあった。「癩病患者」に&#23550 -
dc.description.abstract 念による差別であり、「コロニアル都市」に加えられた帝&#22269 -
dc.description.abstract 」の&#35251 -
dc.description.abstract んでいった。これは明らかに近代の以降作られた「身&#20307 -
dc.description.abstract に追い&#36796 -
dc.description.abstract 督府はこのような「癩病患者」に徹底した制裁を加えながら、彼等を周&#36794 -
dc.description.abstract 日本の位相を汚す存在として認識されていた。&#32207 -
dc.description.abstract 秩序の「正常的」な維持と再生産に脅威を加える存在であるだけではなく、帝&#22269 -
dc.description.abstract えられた。 以上で確認されたように、植民地時代における釜山の「癩病患者」は社&#20250 -
dc.description.abstract 的な成果に逆行する差別·隔離政策が植民地時代を通じて患者に&#19982 -
dc.description.abstract &#23398 -
dc.description.abstract する&#21307 -
dc.description.abstract 染性が微弱であるという「癩病」に&#38306 -
dc.description.abstract 性」を得ることができる。また、&#20253 -
dc.description.abstract は「正&#24403 -
dc.description.abstract する不合理で扇動的な&#23550 -
dc.description.abstract いて、患者に&#23550 -
dc.description.abstract 落」による病という一種のスティグマが&#20685 -
dc.description.abstract 的&#22549 -
dc.description.abstract まれていった。なお「癩病」が「社&#20250 -
dc.description.abstract がるものであった。そのため、「癩病患者」には追放と拒否という形の苛酷な分割線が引かれ、患者たちはだんだん周&#36794 -
dc.description.abstract 面にも&#32331 -
dc.description.abstract の&#20307 -
dc.description.abstract 面は帝&#22269 -
dc.description.abstract 的秩序を保つという名分で釜山の「癩病患者」は植民地時代を通じて徹底的に疎外·排斥されてきた。日本の植民政策の「要」ともいわれた釜山の&#20307 -
dc.description.abstract 質的な救癩が形骸化していく時期でもあった。 以上のように、「コロニアル都市」としての釜山の位相や社&#20250 -
dc.description.abstract 制の影響をうけて「釜山癩病院」の&#23455 -
dc.description.abstract 時&#20307 -
dc.description.abstract 督府からの制裁の露骨化や本格的&#25126 -
dc.description.abstract する&#32207 -
dc.description.abstract 使の活動に&#23550 -
dc.description.abstract 容所に移送される。また、外&#22269 -
dc.description.abstract 化される。釜山の多くの「癩病患者」も小鹿島の&#21454 -
dc.description.abstract 的隔離主義」が&#24375 -
dc.description.abstract 督府が「癩病」の政策にイニシアチブを取り始め、積極的な隔離政策を展開していく時期である。特に、1930年代は皇室の救癩事業への支援もあり、小鹿島を中心とする「絶&#23550 -
dc.description.abstract 性」を得ていく。 第三章の1930年代以降は、&#32207 -
dc.description.abstract 化や小鹿島への移送政策などが「正&#24403 -
dc.description.abstract する取り締りの&#24375 -
dc.description.abstract 調され、それとともに釜山地域の府民的感受性が刺激される。その結果、釜山に存在した患者に&#23550 -
dc.description.abstract する忌避が官や言論によって&#24375 -
dc.description.abstract 生など「癩病」に&#23550 -
dc.description.abstract 連した犯罪の&#30330 -
dc.description.abstract が始まった時期である。この時期は「癩病患者」と&#38306 -
dc.description.abstract する行政的な&#23550 -
dc.description.abstract 秩序と衛生整備の一環としての「癩病」に&#23550 -
dc.description.abstract 使策及び社&#20250 -
dc.description.abstract 宣&#25945 -
dc.description.abstract 外&#22269 -
dc.description.abstract 化されていなかったことが確認できる。 第二章の1920年代は、&#23550 -
dc.description.abstract はまだ具&#20307 -
dc.description.abstract 督府の行政的な&#23550 -
dc.description.abstract 使が救癩活動を主導したのに反して、&#32207 -
dc.description.abstract 人宣&#25945 -
dc.description.abstract 討した結果、この時期は外&#22269 -
dc.description.abstract 院」の誕生について&#26908 -
dc.description.abstract &#21307 -
dc.description.abstract 容は以下のとおりである。 第1章の1910年代は、「釜山癩病院」と「官立全羅南道慈&#24693 -
dc.description.abstract 性」を獲得し、彼等を規律していった。これは植民地時代における「コロニアル都市」釜山に存在していた「癩病患者」にも同じであった。 本論の&#20869 -
dc.description.abstract する統制に「正&#24403 -
dc.description.abstract 力は患者に&#23550 -
dc.description.abstract 象とする。支配&#27177 -
dc.description.abstract 然彼等を忌避の&#23550 -
dc.description.abstract される。 「癩病(患者)」につけられた汚名は、&#24403 -
dc.description.abstract 性」ともいうべきものが付&#19982 -
dc.description.abstract 的な差別には一種の「正&#24403 -
dc.description.abstract に漫然する。結局、彼等に加えられた社&#20250 -
dc.description.abstract も絡んでいるという認識は社&#20250 -
dc.description.abstract 的な欠&#38501 -
dc.description.abstract 染病であり、「業病」とか「天刑病」ともいわれる汚名を持っていたからである。「癩病」にかかっている人は道&#24499 -
dc.description.abstract もうとする。特に、「癩病患者」は分割線を引くのに最適なものであったと言える。「癩病」が&#20253 -
dc.description.abstract 部に追い&#36796 -
dc.description.abstract のため、「正常なもの」と「非正常なもの」の間に分割線を引き、「非正常なもの」に徹底した統制や規律を加えながら彼等を周&#36794 -
dc.description.abstract 家の運&#21942 -
dc.description.abstract 率的な&#22269 -
dc.description.abstract 力は&#21177 -
dc.description.abstract スとしている。支配&#27177 -
dc.description.abstract き掛けてきたのかをベ&#12540 -
dc.description.abstract 力を&#20685 -
dc.description.abstract 家&#27177 -
dc.description.abstract 展のために、如何なる形で&#22269 -
dc.description.abstract の秩序維持や&#30330 -
dc.description.abstract 家が社&#20250 -
dc.description.abstract 民&#22269 -
dc.description.abstract 討した。 理論的には近代の&#22269 -
dc.description.abstract を時期別に&#26908 -
dc.description.abstract するの&#23550 -
dc.description.abstract 日本の植民政策が連動して現われる「癩病」に&#23550 -
dc.description.abstract 究では「コロニアル都市」としての釜山の性格と帝&#22269 -
dc.description.abstract たらない。そこで、この&#30740 -
dc.description.abstract 究は管見のところ、未だに見&#24403 -
dc.description.abstract する管理への要求は官民を問わず絶えずに提起されてきたのである。 ところが、釜山を中心とした「癩病」の&#30740 -
dc.description.abstract 影響を及ぼすものとして認識されていた。植民地時代を通じて釜山の「癩病患者」に&#23550 -
dc.description.abstract ジに&#24746 -
dc.description.abstract 時「癩病患者」は府民(=「良民」)の健康はもちろんのごとく都市のイメ&#12540 -
dc.description.abstract する管理も欠くことのできない懸案であった。&#24403 -
dc.description.abstract に放置されてきた「癩病患者」に&#23550 -
dc.description.abstract 面を保つためには、都市&#20869 -
dc.description.abstract 日本の「コロニアル都市」としてその&#20307 -
dc.description.abstract である帝&#22269 -
dc.description.abstract 門であり、多くの日本人の居住や移動の空間でもあった。衛生を始めとする釜山の都市環境の管理は不可欠なことであったと言えよう。 釜山が文明&#22269 -
dc.description.abstract 日本の「コロニアル都市」としてその役割を果たしていた。釜山は日本の大陸進出の&#38306 -
dc.description.abstract を展開していく1930年代以降、三つに分けている。 本論文の問題提起は次のとおりである。 植民地時代、釜山は帝&#22269 -
dc.description.abstract 督府が「癩病」政策にイニシアチブを取るようになり、積極的な&#23550 -
dc.description.abstract が模索され始める1920年代、それから&#32207 -
dc.description.abstract 督府の行政的&#23550 -
dc.description.abstract 象とする時期は癩病院が誕生する1910年代、朝鮮&#32207 -
dc.description.abstract 討したものである。&#23550 -
dc.description.abstract を各時期別に分けて&#26908 -
dc.description.abstract &#24540 -
dc.description.abstract 的な&#23550 -
dc.description.abstract する政策的、また社&#20250 -
dc.description.tableofcontents 일문초록 = 4 서론 1. 문제제기 = 7 2. 이론적 배경 = 9 본론 : 시기별 나병에 대한 대응 1. 1910년대-나병원의 탄생- 1) 시대적 배경 = 14 2)부산나병원의 탄생 = 16 3)관립전라남도자혜의원 설립 = 18 2.1920년대-행정적 대응 모색기- 1) 시대적 배경 = 19 2) 대외국선교사책에 대한 대응 = 21 3) 사회질서 및 위생정비의 일환으로써의 대응 = 26 3. 1930년대 이후 -적극적 대응시기- 1) 시대적 배경 = 40 2)황실의 구나사업 지원 = 41 3)조선나예방협회설립 = 45 4)소록도나요양소를 핵심으로 하는나병정책 = 51 5)조선나예방령실시 = 57 6) 대외국선교사책의 노골화와 나병환자에 대한 철저한 소외 = 63 결론 = 67 참고문헌 = 70 -
dc.language kor -
dc.publisher 한국해양대학교 대학원 -
dc.title 일제강점기 부산의 [나병]과 그 대응 -
dc.title.alternative The Politics of Hansen's Disease on Busan in the Colonial Period -
dc.type Thesis -
dc.date.awarded 2006-02 -
dc.contributor.alternativeName Kim -
dc.contributor.alternativeName Jeong-Ran -
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동아시아학과 > Thesis
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